My dots.

都内で働く英語が好きな一児の母。ワーキングマザーとして、自分や家族が心地良く過ごすために何ができるか?を日々模索中。英語を使って世界が広がる楽しさを広めたい。

人生を文章にたとえるなら、句読点を打つのは自分しかいない。

もう頑張れないかもしれないなあ、と思った。

今の自分の気持ちを大切にしたい、とはいつも思う。独り身だったら、アテがなくても、もしかしたら今ごろスパッと決断できていたかもしれない。今どころか、もうとっくの昔に辞めていたかもしれない。

 

仕事のことです。

実際には、家のこと、保育園のこと、たくさんの要素が絡み合って、考えれば考えるほどどうしたいのかがわからなくなる。結局、現状維持がいちばん簡単なのです。会社に行けなくなるほど追い詰められているわけでもない。何とかなってしまっている。

 

でも、このままでいいんだろうか?

この会社での将来の姿が思い描けない。かといって、一緒に働いている人のために、ここで頑張ろう!と思えるかというと、そうでもない。それどころか、悲しいけれど、私がいなくても仕事まわっちゃうんだろうなあ、というのが想像できてしまう。

 

以前、ある男性に言われた言葉がふと頭をよぎりました。

女性と違って、出産育児のない男性の人生は、「句読点のない文章のようだ」と彼は言いました。

何を意図して言ったのかはわかりません。世間では女性のキャリアについて何かと取り上げられるけれど、ずっと働き続ける男は男で大変なんだ、という気持ちかもしれません。

その時の私はただ、あまり表に出ない男性側のホンネを聞いた気がして、「男の人も大変だなあ」といとも簡単に納得してしまったことを思い出します。

 

でも、この言葉が、どこかでずっと引っかかっていて。

 

いつまでこうしているんだろう、私。

そう思った時、真っ先にこの言葉が思い出されました。私、句読点がない文の上を歩いているみたいだ。

 

男性の人生に句読点がないわけじゃない。

今の私が思うのは、自ら句読点を打つか、打たないか。本人の選択の問題なのだ、ということです。

自分の人生なんだから、ここ、と思うところに自分で句点や読点を入れていけばいい。なんなら段落だって変えていく。

 

今考えてもわからないから、とりあえず、進もう。仕事に迷った時はこう考えてきました。とりあえず進む、は悪じゃない。でも、次の点が来るまで、とどこか待ちの姿勢でいた。だから、何とかしようと走ってみたけど、ここにきて、息切れしてきたのだと思います。

 

変えられるのは、私だけだ。

 

あのときのたとえを借りて言うなら、読点を打つこと。

 

そろそろ段落変えをする時がきたような気がしています。

自分の世界を広げるために、今の私にできること。

夏休み期間中、二日間子どもを保育園に預けました。

はじめはちょっと罪悪感があったんです。普段は週末しか一緒にいられないし、夏休みぐらい、親子の時間を大切にしたほうがいいんじゃないかって。一方、夏風邪は長引いている。夫は休みじゃないから二人きり。普段できない用事も済ませたいし…なんて気持ちもありました。

 

決め手となったのは、母のこの一言。

「いいんだよ、大丈夫。アメリカでは、子ども預けて夫婦でディナーとかゴルフっていうのも普通だったよ」。

 

父の仕事の都合で、小さいころ家族で3年ほどアメリカに住んでいました。「子どもたちがいちばん手がかかる時期に、アメリカに行って救われた」と言います。日本では、母親が全面的に子育てを担うという価値観が今以上に根強かったころ。アメリカでお母さんたちが気軽にベビーシッターを手配して、のびのびと子育てしている姿にカルチャーショックを受けたそうです。 

 

「母親が子どもと24時間一緒にいて当然」という環境にいた母が、初めて立ち止まって考えるきっかけになったのだと思います。

「もしかしたら、一人でこんなに頑張らなくてもいいんじゃない?」って。

 

ずっと同じ環境にいると、そこでの常識が自分にとっての当たり前になり、何の疑問も抱かなくなってしまいます。

 

だからこそ、いつも広い世界に目を向けていたいと思うのです。そうしないと、自分の考えが凝り固まっていることにすら、気づけない。自由な発想は、「なんでだろう?」「これはどうして?」という問いからはじまるんじゃないかと思います。

 

学生時代の留学中、こういう気づきがあったはずなのに、今の私はすっかりそういうことから離れてしまっているなあ、と母との会話で思い出しました。

 

もっともっと、性別年代問わず、国内外問わず、人と出会って、話して、いろんな世界に触れてみたい。そう思っていたはずなのに、そんな想いも日々の生活の中で何となく流されていく。

 

いや、だからって、子育てと仕事と家事の毎日いっぱいいっぱいなのは事実。どうしたらいいんだろう?

 

海外へ行くのは簡単にそれを叶える方法だけど、今はそれができない。でも、そこまでしなくても、実は普段の生活の中ではじめられることはあるんじゃないか。

 

たとえば、今の私にできること。

 

  • ブログやツイッターで自分の想いや興味関心について書き続ける。内容に興味をもってくれた、普通に生活してたら会えないような人との出会いにつながるかもしれない。つなげたい。

 

  • 本を読む。気になった本は何でも。本からいろんな人の考え方を学ぶ。

 

  • アメリカの妹(留学時にお世話になったホストファミリー)との月いちのスカイプを続けていく。日本人以外で唯一の、仕事、家族の話、ハマっているもの、悩み、何でも話せる貴重な存在です。同時に、アメリカ人だからこそ自分にはない感覚を持っていて、多くの気づきも与えてくれる。

 

  • オンライン英会話。出会いのスケールは大きく、いろんな国の人と話したい。そういうチャンスは突然訪れたりするから、自分のことをちゃんと話せるように、楽しく会話を広げられるように、今から準備しておく。

 

書き出してみたら、案外たくさんある…!

そして、これを全部やったらきっと今より楽しくなりそう。

夏休みのちょっとした気づき、振り返ってみてよかったな。

決めつけないほうが、楽しめるんじゃないか、ということ。

自分の定番になりつつあったショートヘア。

ボブにすべく、今、髪を伸ばしています。

20代の頃は、樋口可南子さんがショートを、ヴォーグ誌のアナ・ウィンターがボブを貫くように、「自分のスタイル」を確立している大人に憧れていました。

それは髪型に限ったことではなく、モノやライフスタイルにも当てはまります。服のスタイル。いつも使うペン。朝はヨガで一日を始める、みたいな決まりきったルーティン。

ストイックさと、「私は、これ」と宣言できる清々しさに惹かれていたのだと思います。白黒はっきりつけたがる性格も影響していたように思います。かっこいい大人になるとは、そういうはっきりしたスタイルを築きあげることだ、ぐらいに考えていました。

 

歳を重ねていくにつれ、自分が好きなものとそうでないもの、似合うものとそうでないものが、少しずつわかってきた気がします。

 

ばっさりショートにしたときは、「これだ!」ってピンときたんです。周りの反応も良くて、ようやく憧れの自分スタイルとやらが確立したような気がしていました。よーし、これからはショートを貫くぞ!と。

 

それが、3年経った今。まさかの、飽きてきた…!

 

今は、ちょっと違う自分に出会ってみたい、という気分です。まあ次も同じ髪型にしたら失敗はないし、子育てしてる身としては何かと時短になるので、変えないのが無難。でもなんかその決め方、寂しいなあと。つまらないかもなあ、と。

 

なぜこんなことを書くかというと、最近、何事も決めつけすぎないほうが楽しめるんじゃないか?って思うことが多いからです。

 

学生時代、中学、高校、大学…とある程度先のステップが見えていたのと違って、社会人になると、明確な区切りがありません(そのステップに何の疑問も感じずに来てしまったというのもありますが)。

「私は何に向かっているんだろう?」とたまに不安になっては、わかりやすい「ゴール」を探し求めたこともありました。でも、そんなもの見つけたところで、達成したら終わり、じゃない。その先も人生は続いていく。だったら、ゴールを定め、そこをめがけて走るのではなく、歩いている途中の風景で何が見えるか、を大切にしたほうが豊かなんじゃないか、と。

 

人は常に変わっていくもの。内面も、外見も。周囲の環境も。

「私は、これ」と言い切る清々しさもいい。でも、変化に合わせて、「あ、いいな」って思う新しいことを躊躇なく取り入れていく姿勢に、最近はより魅力を感じます。

 

書いていて思いました。もしかしたら、昔の私は、選ぶ基準があることと、いつも同じものを選ぶ、ということの区別ができていなかっただけかもしれないなあ。

 

ベリーショートからボブへの道のりは、長い。

途中で寄り道を楽しみながら変えていこう、とちょっぴりワクワクしています。

おかあさんをまるくするもの。

「なんか、まるくなったよね」

わりとよく耳にするフレーズだと思います。それは身近な人に対してだったり、はたまたテレビで観る女優さんに対してだったり。「お母さんになった人」によく使われている気がします。

その雰囲気を醸し出しているのは、柔らかい表情かもしれない。性格的におおらかになったよね、っていうことも多い。もしかしたら、お産を経てちょっぴり肉づきが良くなったことかもしれない。

先日、「お母さんをまるくするのは、こういうものなのかな?」と思う瞬間がありました。

 

先週は、家族じゅうで夏風邪に振り回される一週間でした。

息子が風邪を引いて急きょ仕事を休み、やっと治った!と思ったら今度はなんだか自分の身体がだるい。また休む。途中まで手をつけた仕事が終わらないまま、夏休みに入るはめになる。

「まあ、しょうがないか」

「こんなこともあるよね」

つぶやきながら、夏休みは家でゆっくり過ごしました。

家でやったことの一つが、デジカメに大量に溜まった写真の整理。前から気になっていて、これは絶対やりたい!と手帳で日程を押さえていたぐらい。

その日は幸い体調もいくらかマシになってきていたので、実行に移しました。でも、やっぱりと言うべきか、やり始めると予想以上に時間がかかるんです。結局、思っていたことの半分も終わりませんでした。

「まあ、こんなもんか」

「どのぐらい時間がかかるか、感覚つかめただけよしとしよう」

 

思うように事が進まない。たった2年足らずの子育ての中で、こういうことが数え切れないほどありました。それで、今ではすっかり「思い通りにならなくて当たり前」という思考になっています。思い通りにいかないことへの耐性がついたというよりは、それがあらゆる事の「前提」としてある感じ。

以前の私だったら、急に体調が悪くなったら「あーあ、なんでこんなときに」と思っていたはず。写真整理に至っては、「こんなに時間がかかるなら、もういいわ!」と投げ出してしまっていたかもしれません。うーん、われながら気が短い…。

でも今なら、「うまくいったらむしろラッキー」。そして、子どものいる友だちにこういう話をすると、決まってみんなうんうん、とうなずきます。「いやーむしろ、計画なんて初めから立てないほうがいいかも、ぐらいだよね」と。だから、この感覚は多くのお母さんに通じるんじゃないかな。

 

もしかしたら、お母さんをまるくするものは、「思い通りにならなくて当たり前」という思考なのかもしれない。

計画倒れにいちいちカリカリしないんですよね。それが普通だから。あきらめとも違う。そういうのを、すんなり受け入れられるようになるんです。

 

まあるいお母さんにトゲが生えることも、たまにはあるんですけどね。

子どもにリアルな社会人の姿を見せたい、という気持ちが与えてくれるもの。

I like that my husband and I share each other's stories about work at the dinner table. When my son gets older, I want him to listen to these stories and imagine what it's like to be a working adult.
 
金曜の夜、夫に仕事の相談をされました。
最近、新しく入ってきた女性部下のことで頭を抱えている様子。

部下は夫より10こ年上。プライドを傷つけないように、とかいろいろと気を遣うようです。いつものように、話をひと通り、うんうん、と聞いていました。

私は私で、日々の業務でちょっと改善しようと思っていることについて、相談。

 

大学時代からの付き合いである夫とは、お互いよくこうして仕事の話をします。

会社にこんな人がいてね、とか、こういうことが大変とか、うれしいとか。本当にありのままの話。

そして、こういう話ができる関係が、私は好きです。

いつまでもこうでありたいし、子どもが少し大きくなったらこんなリアルな話も聞かせてやりたい。

 

こんなふうに思うのは、おそらく私が「仕事とは、はたらくとは」のイメージがつかないまま社会人になってしまったから、なのだと思います。

仕事を通して自己実現しよう、みたいなメッセージが世の中には溢れています。いったいそれがどういうことなのかはわからない。でも、なんかかっこいいな。そう考えていた大学生の私は、会社説明会で聞いた「グローバルに活躍」とかキラキラした言葉をたよりに、会社を選んでいました。

 

でも実際の毎日の仕事というのは。

どうやって周りと連携をとるか。どう効率よく仕事を回すか。どうスケジューリングして期間内に仕上げるか。こういう、とっても地味なものじゃないですか。

 

具体的なイメージが湧かないのは、ある程度仕方のないことだったかもしれません。でも、今私が夫と話しているような仕事の話を、小さいころ親から聞けていたら?

 

父は、家ではあまり仕事の話をしない人でした。

もともと口数は多いほうではないし、母が専業主婦だからというのもあるかもしれません。それはそれで親のやり方だから、いいんだと思います。

 

じゃあ、私は親としてどうしたいか?というと、就活の苦い経験を通して、子どもにとっていちばん身近な社会人として、「仕事ってこういうものだよ」というのを見せられる親でありたい。そのためにも、夫とはいつまでも仕事の話をしあえる関係でいたいな、と思うのです。

 

とはいえ、社会人を10年近くやってきて、仕事といつも真剣に向き合うっていうのも難しいな、と実感しています。投げ出してしまいたくなるときもあるし、そういうときは正直、家で仕事のしの字も出したくありません。

実際、復職1年目の去年は、会社に行くだけで精いっぱいでした。

いつかまたこんな姿を見せなきゃいけないときも来るかもしれません。

でも、それはそれでいいんです。

そういう波も感じつつ、仕事をしているとこういうことで悩むんだ、こういうとき嬉しいんだ。じゃあ、自分は、どんな大人になりたいか?って子どもなりに考えてもらえたら、と願います。

 

ここまで書いて、ハッと気がついたこと。

それは、子どもにリアルな社会人の姿を見せたいという気持ちが、仕事と真剣に向き合おう、という気持ちに立ち返らせてくれている、ということです。

 

さっきまで不機嫌で泣きわめいていて、さんざん手を焼いていたのですが。息子にちょっと感謝したい気持ちになりました。

生きているうちは、自分の思い通りに生きなくちゃ。

What’s important is that, at all times, I do every little thing that piques my curiosity. With that attitude, the future is bright. Even if I don’t know where it leads me.

先日、ツイッターで『魔女の宅急便』の著者・角野栄子さんの記事が流れてきました。

それが、とってもすてきな内容で。

 

woman-type.jp

 

引用したいところはたっくさんあるのですが、なかでもこんな言葉が今の私に響きました。

 

死ぬタイミングだけは誰も思い通りにできないんだから、せめて生きているうちは自分の思い通りに生きなくちゃ。

 

たまに、思うんです。20代の頃、もっと仕事に貪欲であるべきだったのかな、と。やりがいある仕事と、結婚して母親になって、実家のような温かな家庭を築くこと。どっちも欲しかった。結婚してからも、仕事でどうしても成し遂げたいことが見つかっていなかった私は、家庭をまず最優先にしようと決めた。仕事はその後だ。

 

いざ出産して仕事に戻ると、実際には子どもができてからのキャリアチェンジ、キャリアアップは難しい、ということをこれでもかというほど思い知らせれた。やっぱり、どっちも手に入れたいんだったら、出産前にもっと頑張らなきゃいけなかったのか?ワーキングマザーへのインタビューなんかを見ると、みんな好きでやりがいある仕事してますっていうのが大前提の、ハイスペックな人ばかり。子どもが産まれてからあれこれ悩む私は、もはや手遅れなのかな。

 

子育てがちょっと落ち着いたら、他の仕事にもチャレンジできるかもしれない。でも、息子にきょうだいをつくってあげたい、という気持ちもある。そうして子育てが落ち着いた頃は、私、いくつになっちゃうの?やっとチャレンジできると思ったときには、もう「歳だから」難しくなっちゃうんじゃないか?

 

やっぱり、「どっちも欲しい」は、欲ばりなのかな。

 

でも、角野さんのことを知って、人生100年時代の30代なんて、まだまだこれからだって思えました。ちなみに角野さんが物語を書きはじめたのは、子どもを産んだあと、34歳のとき。

 

そう。自分の思い通りに生きなくちゃ。

夢中になれる仕事も、温かな家庭も、これからも追いかけ続けよう。

よし、と前を向いた仕事からの帰り道、母からLINEがきました。

 

「おばあちゃんが、スマホを買いました」

 

え、おばあちゃんが。

新しもの好きではあったけど、まさかのスマホ

 

帰宅後、早速LINE電話がかかってきました。そこには86歳になる祖母が、教育テレビのスマホ講座のテキストを片手に、「がんばりまーす」と手を振る姿が。

 

「お母さんにスマホにしろって言われちゃって。もう、おばあちゃん、わかんないわよ〜」

 

そう言いながらも、まんざらでもなさそう。文字を打つのに時間がかかるから、まずはスタンプの使い方を覚えるそうです。そんな祖母の姿を見て、なんかいいな、と思いました。

 

ガラケーを使ってはいたものの、86歳の人が初めてスマホを使うって、かなりのチャレンジだと思うんです。でも、「もう歳だし」じゃなくて、「どんなもんかな、やってみよう」って思えるの、なんかいいじゃないですか。スマホが使えたら、LINEもできるし写真や動画も気軽に送れる。きっとそんな、ちょっと先の楽しい未来に思いを馳せながら、チャレンジしてみようって思ったんじゃないだろうか。

 

キャリアチェンジしたい、と言い続けながらも、じゃあ何がしたいかというと、未だにわからないんです、実は。恥ずかしながら。でも、角野さんや祖母のように、「やりたいことは、やる」という姿勢でいたら、どこにいくかはわからないけど、きっと未来は明るい。

 

大事なことは、いつまでも、どんな小さなことに対してでも、その姿勢をもち続けることだ。

 

自分より半世紀以上長く生きている人たちに、背中を押された気がしました。