人生を文章にたとえるなら、句読点を打つのは自分しかいない。
もう頑張れないかもしれないなあ、と思った。
今の自分の気持ちを大切にしたい、とはいつも思う。独り身だったら、アテがなくても、もしかしたら今ごろスパッと決断できていたかもしれない。今どころか、もうとっくの昔に辞めていたかもしれない。
仕事のことです。
実際には、家のこと、保育園のこと、たくさんの要素が絡み合って、考えれば考えるほどどうしたいのかがわからなくなる。結局、現状維持がいちばん簡単なのです。会社に行けなくなるほど追い詰められているわけでもない。何とかなってしまっている。
でも、このままでいいんだろうか?
この会社での将来の姿が思い描けない。かといって、一緒に働いている人のために、ここで頑張ろう!と思えるかというと、そうでもない。それどころか、悲しいけれど、私がいなくても仕事まわっちゃうんだろうなあ、というのが想像できてしまう。
以前、ある男性に言われた言葉がふと頭をよぎりました。
女性と違って、出産育児のない男性の人生は、「句読点のない文章のようだ」と彼は言いました。
何を意図して言ったのかはわかりません。世間では女性のキャリアについて何かと取り上げられるけれど、ずっと働き続ける男は男で大変なんだ、という気持ちかもしれません。
その時の私はただ、あまり表に出ない男性側のホンネを聞いた気がして、「男の人も大変だなあ」といとも簡単に納得してしまったことを思い出します。
でも、この言葉が、どこかでずっと引っかかっていて。
いつまでこうしているんだろう、私。
そう思った時、真っ先にこの言葉が思い出されました。私、句読点がない文の上を歩いているみたいだ。
男性の人生に句読点がないわけじゃない。
今の私が思うのは、自ら句読点を打つか、打たないか。本人の選択の問題なのだ、ということです。
自分の人生なんだから、ここ、と思うところに自分で句点や読点を入れていけばいい。なんなら段落だって変えていく。
今考えてもわからないから、とりあえず、進もう。仕事に迷った時はこう考えてきました。とりあえず進む、は悪じゃない。でも、次の点が来るまで、とどこか待ちの姿勢でいた。だから、何とかしようと走ってみたけど、ここにきて、息切れしてきたのだと思います。
変えられるのは、私だけだ。
あのときのたとえを借りて言うなら、読点を打つこと。
そろそろ段落変えをする時がきたような気がしています。